創業後数年の3店舗が現在の「心斎橋ミツヤ」の基礎に

小儀本日はよろしくお願いいたします。 本日は創業から今日までのいろいろなことをお聞きしたいと思っているのですが、 まずは創業前、外食産業を志されたきっかけをお教えいただいてもよろしいですか?

松本創業の時点で50年以上前の1961年の話なので、そんな昔のことなんて憶えてないでしょう、とよく言われますが、しっかりと憶えています。
関西学院大学を卒業後に日本ビクター株式会社という会社に入社したんですが、いろいろな事情によって会社を出ることになりました。
そして毎日何もすることがなく、母校の関学に毎日出入りしてぶらぶらしていたんですよ。 私はすでに結婚していたんですが、家内が「働いていないと知られたら恥ずかしいから」と、朝の7時に「行ってきます!」と言って関学に行き、夜の7時過ぎに「ただいま!」と帰ってくる。
就職難の時代で、就職ができず、毎日関学でごろごろしていたんです。

小儀そんな状況から、どういう経緯でアメリカに留学することになったんですか?

松本現在もそうですが、関学には当時からたくさん外国人の先生がいて、そんな中の一人の先生に、「何もすることがないならアメリカに行ってこいよ」と言われたのがきっかけですね。
50年前は今とはもちろん違って、アメリカは簡単に行けるような場所ではなかったんですが、その先生の「今の資本主義社会の中でこれからどんどんアメリカナイズされていったら、必ずアメリカと同じようなことが起こる。だから見てくるのはいい経験になるんじゃないか」という言葉に後押しされました。

小儀50年も前に、そんな大きな決断をしていたんですね。

松本当時は英語なんてできませんでしたし、 お金もないのにアメリカに行ったんです。
まずは先生に紹介された人のところに行って、 そこから半年間のアメリカ生活が始まりました。 そして、僕がアメリカで何をしたかというと、 飲食店でのアルバイトです。
西海岸のいろいろな街で「食」に関するアルバイトを随分しました。

小儀当時の日本の飲食店とは全く違ったわけですか?

松本全く違いましたから、本当に刺激が多かったですね。
今ではあまり想像つかないかもしれませんが、当時のアメリカで私のことを「ジャパニーズ」と呼ぶ人はほとんどいませんでしたよ。
何て呼ぶかというと、「ジャップ」と言うんです。もしくは「イエロー」ですね。
アメリカ人は「ホワイト」と「ブラック」と「イエロー」という簡単な分け方をしていたんです。韓国の人も中国の人もベトナムの人も私も、みんな同じ一つのグループなんですね。
そして、飲食店で働く人の稼ぎが、日本のように固定給ではなくチップだったことにも驚きました。

小儀他に、何か気が付いたことはありましたか?

松本最も印象的だったのは、アメリカでは飲食店が何十軒、何百軒というチェーン店になっていて、上場もされている。飲食店が企業として成り立っていたということですね。飲食店が企業として成り立ち、一大産業になっている。これと同じ価値観が必ず日本に入ってくるな、ということにその時確信を持ち、日本で飲食店をやろうと決めました。